ねこえびすの名著決定版

野良ネコ音吉の勝手に決定「名著」ブログ

福岡カルメル会編訳『沈黙を聴く ー 現代の神秘家モーリス・ズンデルの人と霊性』

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 宗教関係の本は馴染みが薄いかもしれませんが、少々お付き合いください。モーリス・ズンデル神父(1897 - 1975)の『沈黙を聴く 現代の神秘家モーリス・ズンデルの人と霊性』(女子パウロ会)です。

 ズンデル神父は、前世紀の初頭にあって、現代のカトリック教会にあってすら保守的な人々が眉をひそめるような斬新な思想の神学者であったがために、30年近くにわたってヴァチカンから遠ざけられ、生国のスイスからフランス、エジブト、レバノンの教区を転々とすることになります。

 なぜ疎まれたのかについては神学的なお話になるので詳しくは触れませんが、聖職者や修道者になったり、公教要理(カテキズム)を厳守するのが神に至る道だと考えられていた時代にズンデル神父は、聖職者であれ信徒であれ、それぞれが自分らしく生きることでそれぞれに与えられた使命を果たすことだと説いていました。蛇足ですが、こうした思想は1972年にズンデル神父が時の教皇パウロ六世にヴァチカンでの黙想指導に招かれて以来、一部の原理主義的保守派を除き、ローマ・カトリック教会に広く認められています。

 沈黙を聴くという発想を不思議に思うかもしれません。カトリック教徒でさえ、これを直感的に理解できる人は少ないんじゃないでしょうか。

 遠藤周作の小説『沈黙』でも、どんなに信仰が厚くても、どんなに危機的な状況に追い込まれても神が沈黙を守り続けることへの信徒の苦悩がテーマになっています。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」と言っていた使徒トマスに、復活したイエスが「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と言ったことを知っているキリスト教徒ですら、日々祈り、願う相手である神が沈黙を貫くことは、時には漠然と、時には先鋭化した「神の不在」という恐怖や不審となり得るのです。

 ところがズンデル神父は、沈黙こそは神へと至る唯一の道であり、汲めども尽きぬ真理の源泉だというのです。

 

「「(私が起こした奇跡のことを[注釈:高岡])だれにも話してはならない。」これはイエスが病をいやした人に言われたことばである。キリスト教のすべてはこのことばにかかっている。「だれにも話してはならない。」

 大部分の人々にとって、キリスト教が愛の情熱、希望するものをはるかに超えて彼らを満たす答えである代わりに、果たすべき数々の義務のようになってしまったのは、たぶん私たちがこの沈黙の精神が分からないか、またはそれを失ってしまったためであろう。

 こうして、沈黙はますます破壊され、キリスト教は集団的な禁令、沈黙に根差す唯一の偉大さを失った集団の運動と化してしまう恐れがある。沈黙なしには何もなし得ないことは確かだ。私たちの自由を創造する沈黙、人類のうちに私たちを造り出すのはこの沈黙である。そして、私たちが神に出会い、自分たちの生物的自我と、大衆を支配しているいろいろなスローガンに打ち勝つのは、そこにおいてなのである」(P.106)

 

「真実に孤独であればあるほど、私たちはともにいることができるのだ。宗教的生活を公分母にしてしまってはならない。個人的な神との出会いは、つねに新しくユニークなものであらねばならない。宗教的物質主義は何よりも恐ろしい。典礼生活の外側のみに重点をおいて内側をおそろかにするなら、典礼はまったく不透明なものになってしまうであろう。共同体は各人の個人性に協力し、個人の秘められた部分を見いださせ、共通善と同時にその人に固有な善を発見させなければならない。外的な動作しか大切にされず、神との個人的な親密さのない場所がない騒々しさほど、魂を傷つけ、生皮を剥ぐような残酷さはない。

 すべて偉大な業は沈黙の業である。毎日完全な沈黙の時を持ち、私たちをつねに新たに生まれさせてくださる神にこの沈黙の場をあけないなら、そしてすべての人々をそこに見いだし、表面的なすべての流れから逃れさせるこの中心的な層に達して生きないなら、私たちは決して真のキリスト者、真の人間にはなれないであろう。イエスの犠牲は神のうちに隠れ、神とすべての人に与えられて完成した。それは沈黙の調べ! 私たちが神の現存を呼吸できるのも沈黙のうちにおいてである」(p.108)

 

 自分のうちに騒ぎを起こさず、私の置かれている境遇や願いを神はすべてご存知なのだから、あれやこれやを神に願い祈ることはせず、自分の心を空っぽにして神に引き渡せばよい。

 ここで注意すべきは、心を空っぽにすることと禅の無の境地とは似て非なるものだということです。最後にその違いの分かるくだりを紹介して今日の締めくくりといたします。

 

「世を捨てるとは何だろうか? 人々から離れ、人間生活の当然の要求を拒否し、生きるための戦いを逃れることか? それではあまりにも簡単で安易である。外的な壁を立て、講師を作っても、それが人をキリスト者とするのではない。

 世とは、私である。世の精神とは自己崇拝である。世を捨てるとは自分を捨てることである。では、自分を捨てるには何をすべきか? 手荒く本能を抑圧し、誘惑を押さえつけ、細かく良心を糾明し、すべてにおいて、すべてをもって自分に反対することか?

 いいえ、むしろ自分を放っておくこと、自分に構わないこと、自己を改善するためにでさえ自分を眺めないことである。殺すことではなく、いやされること。そしていやされるためには、良きサマリア人がしたこと以上の行為はない。

 自分と戦うよりも、自分を与えること。自分など眺めるに足りないものと分かって。夢中になって主を眺めること。彼のうちに自分を失ってしまうほどに!

 大自然雄大な眺めを前に、人間は小さなもの狭いものを忘れてしまう。神の美しさに魅せられた人は、もはや自分を眺めない。光の中に隠れて、その輝きを曇らせないことだけを願う。「あなたのみ顔を、主よ、あなたのみ顔を私は探し求めます!」

 このように愛するとき、すべての被造物は私たちにとって、主の玉座、そのみ足の足台となるであろう。しすて私たちは聖アウグスティヌスのこの言葉を理解するようになる。「愛しなさい。そしてあなたの望むことをしなさい。」(p.90)